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難攻不落の水城「忍城」
昨日は一日特に予定がなかったのですが、家でくさっているのもあれなので、
出かけて参りました。

前々から少し見たいなと思っていた埼玉県行田市にある忍城に行ってきました。

この城は戦国時代の関東七名城のひとつともいわれたほどの名城で、
落城したことがなかったそうです。

忍城が作られた年にはいくつか説がありますが、だいたい1479年頃
には成田顕泰(あきやす)により築城されたと言われています。

忍城の名を知らしめた戦いといえば、小田原攻めです。

小田原攻めとは豊臣秀吉が天下統一の最終仕上げとして起こした戦いで
小田原を中心に関東を支配していた北条氏を倒すために行われました。

きっかけは北条氏が、秀吉の再三の上洛(京に軍を連れ入ること)要請を
のらりくらりと言い逃れ、従わなかったなかで、真田昌幸との間で
小さな衝突があり(名胡桃城奪取事件)、これを口実に秀吉からとがめられて
小田原攻めが実行されたと言われています。

この戦いで北条氏側についた成田氏は小田原へ加勢しに行き、
忍城は叔父の泰季が守ったそうです。

戦況が悪化するにしたがい忍城もついに攻められることになりました。

陣頭指揮をとったのは石田三成でした。

周りが水で囲まれなかなか思うように攻めることができない三成。
三成は秀吉の助言により、水攻めをするこにしました。

近くの利根川と荒川を結ぶ堤防を築かせ、その川の水を一気に流し
忍城一帯を水で沈めたといわれています。

しかし、それでも忍城は落ちませんでした。
こんなに水浸しなのに沈まないのは城が浮くからだとされ、
忍城は浮き城とも言われています。

そうこうしている間に小田原の城は落とされ、北条氏は降伏しました。

これに伴い小田原城開城から1ヵ月後、忍城も開場し、
小田原攻めは幕を閉じるこになります。

この後、家康の四男、松平忠吉が収め、酒井氏、阿部氏などが収めた後、
明治6年に競売にかけられほぼすべての建物がなくなることになり、
忍城400年の歴史も幕を閉じることになりました。

いまある、お城もあとから復興したものだそうです。

唯一当時の面影が残っているは近くにある水城公園だそうです。

僕はそんなに城好きではないのですが、それなりに楽しむことができました。
城好きな方はぜひ、一度訪城するこをお勧めします。

でも今回城を見て思ったことは、歴史的背景を知って見るのと、
知らないで見るのとでは全然違うなーということです。

小学生くらいのとき、旅行とかでいろいろ見させられたのですが、
きれいだとかすごいだとかそんな感じにしか感じなかったのですが、
歴史を知ると、いろいろ考えさせられとても感慨深いです。

今度、暇があったら小田原城にも行って見たいと思いました。

忍城


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歴史 | 【2007-02-12(Mon) 23:58:18】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
桶狭間の戦い 情報で勝った織田信長
天下統一を目指して京都への進軍を始めた今川義元。

たえず争いが絶えなかった織田家に終止符を打つべく2万5千の大軍を
引きつれ尾張へ進行した。

戦力に格段の差があり、織田軍が敗れるの時間の問題であった。

そこへ「今川軍勢が田楽挟間で昼食をとっている」という知らせがあった。

その知らせを聞いた信長はいちかばちかの奇襲作戦に出た。

今川軍2万5千に対して、信長は1千の兵を自ら率いて密かに進軍し、
田楽挟間を見下ろす太子ヶ根から一気に突撃を開始した。

不意打ちを食らった今川軍は混乱し義元の首はわずかな時間で織田軍に
とられてしまった。

歴史上最も華々しい逆転劇と言われたとても有名な戦いです。
信長はこの戦いで、義元の首をとった家来よりも、義元が田楽挟間で
昼食に入ったという知らせをした梁田政綱にたくさん褒美を与えました。

2万5千と1千。この差を覆したのはたった一つの情報です。
これを現代社会に置き換えると、小さな会社が情報を武器に大きな会社を
打ち負かしたことになると思います。

また、その情報を信じ、奇襲作戦に出た信長は現代の社会では
名経営者になっていたと思います。

今も昔も情報の量は違えど、重要さは変わらないということを
しみじみ思いました。

歴史 | 【2006-11-05(Sun) 12:41:37】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
おぉ侯嬴(こうえい)先生!
その昔、中国に侯嬴(こうえい)という人物がいました。
今から2200年以上も前の群雄割拠の戦国時代の話しです。
侯嬴は城の門の門番をしていました。

ある時、戦国四君の一人信陵君が侯嬴が賢人だという噂を聞きいれぜひ、食客に招きたいと思い口説きにいきました。
侯嬴はもう70才でいまさら華やかな暮らしなどしたくないといい、それを断りました。
そこで、信陵君はとりあえず、4日後の酒宴に出席して欲しいと懇願し、
侯嬴もそれに応じました。

さて、当日時間になっても侯嬴が見えないので信陵君は馬車で侯嬴を迎えに行きました。
迎えにいくと侯嬴はすっかり忘れた様子です。
しかも馬車に乗っても上座に座ったり、挙句のはてには途中よるところがあるといい、長らく友人と話していました。
もう酒宴の時間だというのに、、、がしかしさすが信陵君、笑顔で待ち侯嬴を丁重に扱いました。

それを見ていた民衆たちは門番のくせになんて無礼なやつだ!と非難しまくり、
それに引き換え信陵君様はすばらしい方だと人気がうなぎのぼりにあがりました。

酒席で、なぜそんな無礼なことをしたのだと他の食客から聞かれ侯嬴はこう答えました。

「自分が悪役になることで信陵君様の人望は前にも増して高まりましょう」

僕はこのとき、おぉ侯嬴先生!と思いました。

僕はできるだけ人に嫌われたくないと思っているちっちゃな人間です。
人を引き立てることはできたとしても、自分を悪役にしてまではできません。

しかし、これから仕事をしていく中で自分が悪役になった方がうまくいくような状況があるように思います。その時はおぉ侯嬴先生!と思いながらなんとかがんばりたいと思いました。


歴史 | 【2006-10-06(Fri) 00:14:23】 | Trackback:(0) | Comments:(4)
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